施術家の思考

なぜ、痛みのある腰に直接鍼を打たなかったのか——貧血既往患者への腰痛アプローチ

症例概要

慢性的な腰痛を抱えていらっしゃって、3ヶ月前の急性発作をきっかけに歩行困難を経験されたことがある患者様。重度の肩こりも併せて訴えており、日常生活で気にならないレベルまで痛みを下げたいという目標があった。

もう一点、見立て全体を左右する背景があった。貧血の治療中とのことだったが、ご本人が訴える自覚症状や普段の様子を伺う中で、全身の酸素運搬能力がまだ十分に回復しきっていないのではないかと判断した。

「質」と「流れ」を分けて考える

腰痛の患者を診るとき、多くの場合は痛みの部位そのものに意識が向く。今回はその前提を一度外す必要があった。

貧血の治療を要するということは、血液という「質」の問題がまだ解消しきっていないということだ。一方で、朝起きた時が最も痛みが強く、入浴後は痛みがゼロになるという訴えは、「流れ」の問題、つまり血流の状態が症状に直結していることを示している。

この二つは別軸の問題として扱う必要がある。質の改善は内科的な治療の領域であり、鍼灸が担えるのは主に流れの部分だ。だからこそ今回の施術方針は、患部を直接狙うのではなく、全身の血流をどう底上げするかという設計から組み立てることになった。

発症の経緯

長時間の座位がきっかけとなり、ぎっくり腰様の発作で歩行困難に陥ったという経緯があった。以前には頚椎症の診断歴もあり、左手のしびれは現在消失しているものの、首・肩の重さは残っている。

日常的に座って過ごす時間が長い生活習慣があり、長時間同じ姿勢を取り続ける傾向も確認された。座位という負荷が発症の引き金になったこと自体が、生活指導の優先順位を考える上でのヒントになる。

検査で見えた所見

検査項目・部位 所見と推測される原因
脊柱(胸腰移行部) 骨格が後方へ突出し、本来あるべき前方のカーブが失われている。構造的に腰へ負担がかかりやすい状態
回旋動作 右に比べ左方向への捻りが極端に硬い。自律神経の緊張が左側に偏って現れていると考えられる
首の動作と腕の関係 上を向くと右側に突っ張り感。肘周辺を圧迫すると動作が改善するため、腕の筋膜が首を引っ張っていると推測
肩の盛り上がり 筋肉の過度な緊張が骨を引っ張り、アライメントが崩れていることが原因
股関節の連動 左股関節の開きにくさを骨盤の過剰な動きで補う代償動作が発生し、腰部へのストレスを増大させている
足首の柔軟性 足首の硬さにより体性感覚の精度が低下し、無意識下の姿勢制御にエラーが生じている

既往にも目を向けると、左足底筋膜炎を長く患っていた時期があり、左側に重心エラーが生じやすい背景がある。加えて生まれつき左股関節が内側に入りやすく可動域制限があるという骨格特性も持つ。皮膚がかぶれやすい体質で、出血リスクのため一部の鎮痛薬は服用できないという制約もあり、施術方針を考える上で無視できない情報だった。

患部を避けて、足首と肘周辺を選んだ理由

痛みのある患部への直接刺激は避け、足首や肘周辺のツボへ鍼刺激を行った。狙いは脳へ送られる姿勢情報の修正と、全身の血流改善の二点に絞っている。

貧血治療中の体に対して、患部への強い刺激は必ずしも得策ではない。むしろ末梢から体性感覚のエラーを整え、結果として全身の血流を動かす方向にアプローチする方が、今の体の状態に見合っている。

施術後、股関節の可動域が拡大し骨盤の過剰な代償動作が減少した。首を上に向ける際の右側の突っ張りも消失している。施術中には左足に冷感を感じる場面があったが、これは滞っていた血流が動き始めた際に起こる生体反応であり、悪い兆候ではない。

生活指導で伝えたこと

日常生活で意識してもらいたい点を、大きく三つに絞って伝えた。

まず睡眠姿勢。横向きに寝る際、上側の膝の下にクッションを置くことで脊柱のねじれを物理的に防ぐという工夫を共有した。朝の痛みが最も強いという訴えに直接効いてくる対策だ。

次に座り方。膝を抱えるような姿勢は骨盤を後方に倒し、脊柱の変形を助長するため避けてもらうよう伝え、こまめに姿勢を変えることの大切さも共有した。

最後にストレッチ。安全に行える範囲のものをいくつか指導しつつ、腰への負担が強く痛みへの恐怖心を助長しやすい動きについては避けるよう伝えた。安全に動ける範囲を明確にすることも、指導の一部だと考えている。

今後の治療計画で伝えたこと

本格的な運動経験があまりない状態は、裏を返せば刺激に対して体が変化しやすい伸び代でもある、とポジティブな見通しとして伝えた。内科的な治療と並行しながら、鍼灸では血流を高める力を底上げし、姿勢制御のエラーを修正しながら良い状態を定着させていく方針であることも共有した。

この症例で伝えたいこと

貧血という「質」の問題と、血流という「流れ」の問題を混同しないこと。既往に治療中の貧血がある患者に対しては、患部への直接刺激よりも、末梢から体性感覚と血流にアプローチする方が理にかなう場面がある。

痛みの場所だけを見ていると、この判断にはたどり着かない。既往歴、内服、生活背景など、全身を見立てることの意味を改めて感じた。

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